2011年12月14日水曜日

昔の…~2005年12月02日 エディ・ゲレロ死去

WWEと言うアメリカ最大のプロレス団体がある。
そこのスター選手であるエディ・ゲレロが11/13に急死した。

高校時代にスポーツのケーブルテレビ局であるESPNの番組で
WCWと言うプロレスを見始めたのがアメプロとの出会い。
その頃はスティングやディーン・マレンコ、リック・フレアーが好きだった。
で、エディもその頃からなんとなく知っていた。
アメプロと再会したのは大学時代。
従兄の住むアメリカに遊びに行く度に
見るテレビがなくてプロレスを見ていた。
最近ではJスポーツと言うチャンネルでよく見ていて
エディは陽気で戦い方も見ていて面白いし好きだった。

38歳での死。
そう言えば先日、38歳のカズが移籍先のオーストラリアで2ゴール。
エディの試合がもう見れないと思うと、なんだか寂しい。

昔のブログが消えるらしいので、移行~2006年03月20日 一件の婚礼と一杯のカクテルとアクセサリー

昨日初めて自分のしている仕事を好きになった。

今までは別にブライダルコーディネートとか好きでなかったし
一生に一度の幸せに関われるなんて良い仕事だねと言われても
はぁそうかなぁ?でもそうでもないような気がするけど程度だった。

んでもって。昨日担当したお客さんはとても好きだった。
好きだったんだけれども、お客さんの仕事の都合などもあり
思うように準備が進まず、自分達も把握していない始末。
とても、当日を迎えるにあたってはこっちも不安だった。

そして当日。実際になってみると問題がいくつか起こる。
お客さんのお持ちになるはずのものを忘れていたり、
お客さんの方で手配されていなかったり、
こちらと新郎と新婦の連絡ミスで手配が出来ていなかったり。
それらは想像の範囲内ではあったのだけれども、
乗り越える数は思っていたよりも多かった気がする。
ひとつひとつでできる限りの可能性を考え、提案し、
迷惑のかかるスタッフにお願いし、お客さんの了解を得て。
でもトータルでは本当に上手く行って、本当に良かったと思えた。


先週のことだったのだが、自由ヶ丘にあるとあるバーに行った。
去年職場の先輩に教えて貰ったバーで、カクテルが本当に美味しい。
どれくらい美味しいかと言うと、酔ってしまうのが惜しい程美味しい。
で、その日一緒に行った後輩がお薦めの青いカクテルを頼んだ。

しばらくして。

脚の部分に素晴らしい装飾のなされた素敵なフルートグラスに
素晴らしいカクテルが注がれてきた。
そのカクテルは青で、水面からは氷河のように
クラッシュアイスで埋められている。
水面近くはブラックライトによって月明かりで照らされたように白く光っている。
そしてその神秘的な静寂の青い海の底には
静かに角砂糖がひとつ沈んでいた。
なんて素敵な一杯なのだろうと思い、ずぅっと眺めてみた。
そして、こんな一杯に素敵な演出を成すバーテンダーと言うのは
なんて素晴らしい種類の人間なのだろうと思った。

でも昨日。もしかしたらブライダルコーディネートも
そう言う仕事なのではないだろうかと初めて思えた。
そこまで大それていないにしても、そう言う可能性を秘めた仕事だと。
そこに楽しさと言うか、居心地の良さのようなものを初めて感じた。
「華やかなものの裏にはとても地道な努力がある」と
この日の新郎のお父さんは謝辞の中で言っていたが
その地道なものの先の華やかさを、初めて実感できたのだろうかと思う。

そしてたぶん僕の父のしている仕事も
このカクテルや一件の婚礼のような仕事であるのだろうなぁと。
この3つに新たな共通点の発見をして、1人興奮しながら
夜の街を自転車で自宅へと向ったのでした。

昔の…~2006年03月26日 ちばのおじいちゃん

金曜の朝。ちばのおじいちゃんが亡くなった。
うちの母方の祖父だ。
以前から肺が良くなくてずっと病院を転々としていた。
僕は初孫なので、昔からとても可愛がってもらっていて
小さい頃からとてもたくさんの思い出がある。

プールに行ったりお風呂に入れてもらったり
水が飛び散らないうがいの仕方を教えて貰ったり。

この土日はお通夜と告別式だった。
一通りのことがとてもよく解った。
色々なことを思い出すと寂しいのだけれども
83歳まで生きたのだから良かったと思う。
これからは良くちばのおばあちゃんを連れ出そう。

昔の…~2006年03月29日 I went to the...

昨日火曜。千葉県は八街に行ってきた。
なぜか。亡くなった母方の祖父は昔都賀に住んでいた。
おそらく僕が6歳の頃までなのだが、
その時は都賀の団地から程なく行ったところにある
養鶏場で働いていて、その養鶏場でよく遊んだのだ。
だので車を出したついでに記憶を頼りに都賀に行ってみた。

都賀の団地は結構すぐに見当がついた。
もうそろそろ都賀から引っ越すと言う時に
都賀の駅から団地のすぐ側までモノレールを建設していて
その終点駅がすぐそこに見えた記憶があったからだ。
そのモノレールの駅は千城台と言う終点の駅だった。
恐らく都賀からその千城台までは車に乗って行ったはず。
道端にある鯉を売っているペットショップに妙に覚えがある。
(あとで父に確認したら当時からあったとのことだ。)
記憶では千歳台の駅の道を左に曲がってすぐだと思っていた。
でも実際は真っ直ぐ行ってすぐであった。
団地の裏には良く遊んだ小学校がまだあったが、
昔は破れていて侵入可能だったフェンスが綺麗になっていた。

ここまでは良かった。養鶏場までの道はもっと判らない。
記憶では団地を左に出て真っ直ぐ行くと山にぶつかるT字路があり
そこを曲がって真っ直ぐ行く…ような…。
まず驚いたのはT字路がほぼ記憶のままだったと言うこと。
そしてそこを記憶どおりに左に曲がる。
養鶏場は山中をずっと行くイメージがあったが、
実際は畑や林を抜けはするが、いたって平らな道だった。

ずっと真っ直ぐ行く。なんとなく見覚えがある。
けれどもこれからどう行けば良いのか判らない。

道端の角にあるセブンイレブンに車を止めトイレをかりる。
ちょっと困ったので忙しくなければと思い父に電話。
父が言うにはどこかを右に曲がるらしい。
そして“池”や“大きな農家の門”の横を通るらしい。

池・池・池。

そー言えば大きなネズミのいる池があった!
そう思いセブンイレブンの横を曲がっていく道に目をやる。
なんだか見覚えのあるような気がしてならない。
よし。この道と決めて真っ直ぐ進んでみようと思う。

右に曲がると一本道だと父が言っていたのでただひたすら行く。
ちょっとこの道じゃなかったかなぁ…と思い始めたとき
少し開けたところで農業用水路を渡す橋があった。
そう。ここでよくつくしを取った記憶がある。
そしてそのつくしをお浸しにして食べていたっけな。
もしかしたら道は合っているのではないかと思い始める。
もうしばらく行くと道端に牛舎があって牛がいる。

牛・牛・牛。妙に見覚えがある。

そーだ。牛が近くにいて、これくらい小さな囲いの中に確かいた。
養鶏場は近いような気がする。
しかしその道を真っ直ぐ行くとちょっと大きい通りにぶつかって終わり。
これは違うと思いちょっと戻ってみる。

たしか養鶏場へ行く道は舗装していなかったはずだ。
そう思い脇道に目をやりながら進む。
そうするとなんだか見覚えのある道が。
ここかなと思い曲がってみる。真っ直ぐ行くとすぐ行き止まり。
しかし。隣に座っていた彼女が「あれじゃないの?」と。
開けた畑の左側遠くに茶色い古びた建物が…。

近付いて行ってみると、それはかなり荒廃した建物だった。
しかし養鶏場の建物であることに間違いはなかった。
記憶通りだと左手に横向きの建物が二つ。
その奥に小さな小屋があって、そこに自転車など置いてあった。
小屋は引き戸で入って左手にはビニールござが引いてある
台があり、そこでよくお結びを食べた。
その小屋もボロボロで柱だけの状態だったが、発見。
中にはござの残骸や錆びたサンバルカンの自転車が。

二十年も前の記憶をたどって、養鶏場に辿り着いた。
夕焼けで真っ赤になった落花生畑やヒグラシの大合唱。
赤とんぼやバッタや蛇の抜け殻などなど。
来て見ると色々な思い出がめぐりまして。
凄いなと思っていたら
「きっとじいちゃんが教えてくれたんだよ」
と彼女が隣で言った。きっとそうだなと僕も思った。

昔の…~2006年09月19日 The Last Day

9/18敬老の日。
世の中は一日100万食限定の吉野屋の牛丼に沸いた日?
私はひっそりとコーディネーターとして最後の婚礼担当を終えた。

今まで担当させて頂いた婚礼が二年強で約70件。
ご列席頂いた方は数知れず。。
様々な思い出、参考・勉強になったこと、困ったチャン。
素晴らしい人、大好きな人、お世話になった人。
この業界に入ってから様々なことを学び、キャリアを積み。
そんな日々が小さなピリオドを打ちました。

これからはダメ人間ならない程度に
羽根を伸ばし、そしてその次に備えて参ります。

いやぁ。でもラストサプライズは本当に驚いた。
担当にサプライズはご法度だよね。本当に☆

昔の…~2006年09月24日 土日休み

今週末は社会人になってから初めての土日休み。
まぁ、「初めて」と言うのはやゃ大袈裟なのだけれど
感覚としては初めてくらいの勢いです。

で、まず新鮮だったのは街中にスーツ着用者の少ないこと!
今まで休みの日は周囲の人はほとんどがスーツ姿。
それなのに土日はみんな普段着だ!そして人が多い…。

さらに先ほどなどはテレビでサザエさんを見てしまう。
サザエさん見るのなんて本当に久し振りですよ。。
カツオばかりかワカメまで声が変わっている!

あぁ。なんだか浮き足立つなぁ。
そして日曜って予定がないと暇だなぁ。。

昔…の…~2006年12月22日 昔からよく言われたこと

小さい頃からよく言われたことがある。
その中には未だに人生の指針のようになっているものも
結構たくさんあるような気がしている。

幼稚園時代
「自分がされて嫌なことを人にしちゃいけません!」

小学校時代
「自由の裏側には必ず責任が伴う」

中学校時代
「君は自分に甘いんだよ」

高校時代
「終わりよければ全てよし」

大学時代
「走りながら考える」

色々と毛色の異なるセリフたち。
出来ていないことがほとんどのような気がするが…。

これらに、社会人になって加わったのが

「人が必ずしも自分と同じ考えだとは限らない」

マナーについて書かれた新聞記事を読んで
自分は、じゃあどうやってマナーと言うことを
考えてきたのだろう?と思って。

マナーって言うのは人と付き合うと言う感覚のことなのか?
そして人と付き合う感覚と言うものは
どのようにして培われていくものなのか?

自分自身のマナーが完璧かと問われると、判らないのだが。。

昔の…~2007年01月16日 さようなら・親不知

今日、最後の親不知を抜きました。

最後の親不知は超強敵。
まずは麻酔をバスバス打ちまして、その後出てきたのは、メス…。
メスで歯茎をちょいと切ってからは、削る削る。

麻酔をしているから、痛くはないの。
ただ、いつ痛くなるか気が気でないの。

ある程度いったら、細かいのを割って取ったり、削ったり。
その内テコの原理を利用したり削ったり取ったり。
随分と奥深く、根の深い親不知だったようで
口を開けている顎が疲れましたけれども
最後の方はミシミシ言って、抜けよりましたわぃ。。

「どうして親不知を抜こうと思ったのだろう?」
「もう途中で止めて下さい、と言おうか」
「あがががががが……」

これが抜いている間中思っていたことですが、
そして抜いた後はさぞ脱力致しましたが
これでもう抜くことがないと思うと、万々歳です。

ラストは縫合のおまけ付き。
切開、縫合を伴う手術をしたのは、幸運なことに今日が初めて。

親不知後の注意書きには、禁止事項として
飲酒・入浴・運動・労働が書いてありました。

飲酒は勇気がなくて出来ません。
入浴は一日くらいなら別に良いや。
運動ってどこからが運動なんだろう??
労働も同じく、どこからが労働なのだろう??

とか思いつつ、運動のような労働のようなこともしつつ
今日はもうゆっくり過ごしてやる。いぇい。

昔の…~2007年02月10日 今日のポイントのおさらいです

近所の公園にて。数日前から大々的な手直しをしている。
手直し作業員達の立てた看板があったので、通りすがりにチラッと見る。

『古い公園をなおしています』

ここは「古い公園」だったのか?とまず思う。
古いと言えば古いだろう。だって僕の小さい頃より
もっと昔から存在した公園だ。

でも「古い公園」って語感にまず抵抗を感じる。

次に「なおしています」
僕の愛着のある「古い公園」は
工事のおじさん達の手によって「なお」されようとしている。

それは僕の思い出の染み付いた滑り台やしいの木や鉄棒や
そう言ったものをどうにかすると言うことだろうか?
そう思い、無性に寂しくなった所でちょうど公園を出た。

出口の所に僕の小さい頃から立ててあった
「飛び出し注意!」の看板がなくなっていて
「あぁ。きっとそう言うことなんだ。」と
むやみやたらと寂しさが増した。


昼頃、簡易書留で出す手紙があったので郵便局へ行った。

昼頃の郵便局は、普段、結構込み合っているが
郵便物の方は今日はすんなりと行けた。

「これ、簡易書留でお願いします」
「はい。少々お待ち下さい…××円になります。」

お金を払うと、華奢で若い女性の郵便局員は
簡易書留の書類をテキパキと記入する。
そうして最後に年月日を押す丸い判子をポン!ポーン!っと
気持ち良い音を立てて、押した。

彼女があの判子を
あのように気持ち良い音を立てて押せるようになるまでには
実は紆余曲折の物語があって、とても当たり前のようにしているけれど
彼女なりの苦労だとか挫折だとか発見だとか
そう言った人生の片鱗のような物語があったのでは?と
突然思い付く。

判子も押せない新人郵便局員。
目の前で苛立つお客さんに怒鳴られたり。
横目で見ても助けてくれない先輩達。
眼鏡を掛けた定年間近のベテラン郵便局員に教わる極意。


なんだか今日は色々と思いを巡らせたり、想像したりしたが
ポイントはその想像をその場で口にしないことだと思う。
でも、ここで書いてしまったら、同じようなことなんだけれども。

昔の…~2007年04月30日 二代目逝去。

4月29日夕刻。僕の祖父が逝った。

祖父は実家の店の二代目。89歳だった。
生まれは本所で浅草→湯島と育った下町っ子。
じいさんの喋る江戸弁は流暢で気持ちが良い。
ユーモアのセンスがあってよく人を笑わせていた。
僕の言った冗談で祖父が笑うと、ちょっと嬉しかった。

美味しいものが大好きだった。
江戸っ子で味の濃いものや脂っこいものを好んだ。
とんかつはロース。鰻や天婦羅も大好きだったな。

性格はせっかちで声が大きく張りがある。
きっちりした人で、人と人との付き合いを大切にした。
まぁハッキリした性格だったので人との衝突もあり
きっと好きな人と苦手な人は別れたとは思う。

死因は肺癌。煙草のせいで肺を患っていた。
一年前に発覚。ただ何度も余命宣告をされながらも
驚異的にそれを覆し続けていた。
89歳になっても働く意欲のある人で、仕事が大事だった。
抗がん剤治療の為によく入院したのだが
退院したその日に店に来るような人だった。

祖父が店をしていた間には
関東大震災があり、第二次世界大戦があった。
その二つの、とてもとても大きな山を乗り切って
実家の店を切り盛りしていたのは本当に凄い。

おじいさんがいなくなったことは、なんだか信じられない。
おじいさんの写真を見ると、この人が過去の人になったと
そう思うのだが、なんだか不思議なことだ。

あんなに存在感のある人が亡くなった。
なんだかポッカリ穴の開いたような。
でも、いつか来ることだったと、そう言う風には考えられるが。

昔の…~2007年05月01日 4/18 1stDAYinNY

さてさて。今日からNY日記を毎日更新!(力説。)

初日は成田から13時間程のフライトを経てJFK国際空港へ。

アメリカの空港は以前行った欧州の空港に比べるとやゃ暗い。
と、言うかJFKはどうやら改修・改築工事中。
到着の方が回収前だったのか、古く・暗い。
帰りの搭乗の方は工事もしつつやゃ明るかった。
けれどもオランダやミラノの空港の様な可愛らしい色使いはなく。

到着したNYは薄曇り。

到着時間は17時50分。ちなみに成田発も同日の17時50分。
なんだか瞬間移動して一日得した気分になる。

JFKまでは迎えに来てもらって、メトロでマンハッタンへ。
そしてアパートメントにチェックイン。
その後迎えに来てくれた人などと夕飯へ。タクシーを使う。

飯を食ったのはエンパイアステートビル近くの…バー?
でかいハンバーガーを頬張りつつ、コーラを飲む。
ポテトは山盛り。どんだけ食べるんだと。
夜のNYの飲食店内はどこを見てもsex&cityの舞台みたいだなぁと思う。

そう思いつつ、キングコングの登ったビルを見上げる。
なんだか新宿にあるドコモのビルにも見えてきて
あぁ。ここは新宿だったか、と一瞬思う。

NYは東京の様な街。
LAしか知らなかったし、LAっぽさがアメリカと思っていた。
けれどもなんだかここにはLAとは違ったアメリカっぽさがあるよう。
なんとなくだが、ティファニーとウッディ・アレンが本当に
アメリカの産物であるんだなぁと初めて納得できた。

泊まるアパートメントは案内人がとっておいてくれたのだけれど
東55番通りと2番通りの交差点近く。
セントラルパークまで徒歩15分位で結構中心街。
そして、キッチンやお風呂付で、広い。プチ単身生活のよう。

アパートメントに帰る途中で、飲み物など買い物をする。
そして時差ボケと戦いつつ就寝。明日はどうしましょうか…。

昔の~…2007年05月04日 4/19 2ndDAYinNY !!

宿の周りをうろつこうと、地図を調べて、そして意を決して外出。
宿のあるE55thStと2ndAve交差点付近から5thStに出る。
そこから北に向ってセントラルパークを目指す。
五番街にはティファニー始めヴァンクリーフやブルガリなどなど。

セントラルパークはアムスのフォンデルパークにもちょっと似ている。
超デカイ日比谷公園のよう?たまにある岩場で遊ぶ子供が楽しそう。
後で知ったのだけれど、セントラルパークは縦4km、横800mと言うサイズ。
そしてセントラルパークの中頃に位置する
メトロポリタンミュージアム付近まで歩いてみる。

メトロポリタンミュージアム付近で13時よりヤンキースタジアムで
インディアンスとの試合があるとテレビでやっていたのを思い出す。
だので地下鉄で調べて、ブロンクスにあるヤンキースタジアムへ。
ブロンクスの方は治安が悪いそう。
確かに地下鉄に乗っていてブロンクスに近づくと白人が減り
黒人と、あとたまにメキシコ人と言うような感じになる。
ただ、雰囲気的には三越前を過ぎた浅草行きの銀座線のよう。

ヤンキースタジアム着。球場をくるっと半周してチケット売り場発見。
当日券があるようなので並び、$16のチケットをGET。

試合は先制し追い着かれるも引き離すが
その後4点をとられ、5対2に。
ジーターやAロッドが全然打てない。ジアンビもHR以外見せ場なく。
ただ、生の「ジアンビシフト」には感動。
(ジアンビの打球は一二塁間一塁よりを抜けるため
 セカンドが凄く一塁方面による守備隊形)
そしてジアンビのHRは放物線上でなく、ほぼ弾道だった。

YMCAやGodBlessAmerica、TakeMeToThe…も生で体感!
あとスナック菓子売り。コントロール抜群で菓子を客に投げる。
またファールボールを観客が取り損なうと
他の客達から容赦ないブーイングが飛ぶのはウケタ。。
観客の応援とゲームとには本当に一体感があり、良いなと。

7回裏辺りから、一向に点の入らない展開に
ヤンキース敗戦と見たファン達がゾロゾロと帰り始める。
回を重ねる毎に岐路に着く人は増える一方で
9回表にAロッドのエラーで失点したときも尚更。

が、9回裏。まず交代出場のフェルプスが2アウトからソロアーチ。
その後、ポサダ、デイモン、ジーター、アブレイユと続く安打。
その点差は一点差にまで縮まる。
この時点でランナーは一二塁。打者は4番、Aロッド。
この日のAロッドはそれまでの4打席凡退していただけでなく
9回にエラーより失点の原因となっている。
しぃかぁし。4月は結構好調でHR量産中だった。

場内の雰囲気は最高で最高潮の中、奴ぁサヨナラ3ランHRを放つ!
思わず後ろの見知らぬ外人とハイタッチ&ガッツポーズ!
Aロッド超格好良い!と、もうメロメロよ。

気付くと場内にはフランク・シナトラの
『ニューヨーク・ニューヨーク』が流れている…。

最高の気分!!いやぁ。凄かった。。

昔の…~2007年05月05日 4/20 3rdDAYinNY !!

ニューヨーク三日目。

朝起きる。。眠い。眠すぎる。。。
これは、時差ボケである。

東京とニューヨークの間には実に14時間程の時差がある。
これはどう言うことかと言うと、ほぼ昼夜逆転と言うこと。

そんな風に思いながら、ソファーにゴロリ。
またこのソファーが良かったんだなぁ。。

ゴロリ。ゴロゴロ。んん~。……。zzz...zzz...。


気付けば夕方。ぎゃあ!

昔の…~2007年05月17日 4/21 4thDAYinNY !!

昨日の反省を生かし?早めに外出。
アパートメントから少し歩いた所のスタバで朝食。
隣の女性4名(親子&親戚?)と少し会話する。

そこからMOMAの前を通り過ぎ、タイムズスクエアへ。
ヴァニラスカイでトム様が立ち尽くしていた所。
そしてタイムズスクエアにあるVirginでCD購入。
しばらくフラッとした後、歩みをダウンタウン方面へ。
チェルシーピアを経て、海沿いをグラウンド・ゼロへ。

広大な空地は工事現場となり眼前に広がる。
ここに巨大な建物のあったことを僕は知らないが
周囲の建物に残るちょっとしたコゲ痕なんかが想像させる。
足元にある砂や小さなゴミは残骸かも知れぬと思う。
でもニューヨーカー達はその横を談笑しながら走り去る。

しばし黙祷。その後再び海沿いへ。
近くの高級そうなアパートの合間を通り抜ける。
こんな近所であんなに大きなビルが崩れ落ちたらビックリしたろうなぁ。

暫く行くと、海の向こうに自由の女神を発見。
女神の対岸の公園に腰掛しばし眺める。
なんとなくお台場に自由の女神があることに納得する。
雰囲気がなんとなく似ているの。

それから今度はアップタウンへ向け歩き出す。
ウォール街の横、チャイナタウン、SOHOを通り抜ける。
SOHOと言うのはSouthOfHOustonの大文字部分の略だそう。
SOHOにはお洒落なカフェやらブティックやらが多数。
僕の思っていたSOHOはSmallOffice/HomeOfficeの略だったようで
イメージが異なったのは当たり前やってんねんなと思う。

再びタイムズスクエアへ。
WICKEDと言うミュージカルのチケットをGET。
$121.25と、やゃ高かったけれども、良いか。

そこから今度は横へ、横へ。
アパートメントのそばにアンティーク・アートセンターと言うのが
あることに初めて気付き、立ち寄る。
地上一階、地下二階の建物内はアンティークジュエリーから始まり
銀器、西洋東洋ポリネシアやアフリカの古物雑貨。
中国の象牙彫刻大振り、小振りの陶器や青磁。
時計各種、絵画、などなどなどなど。
骨董品と思しき物を扱っている大小商店が目白押している。
その中の1店舗に立ち寄る。

Tiffanyのアンティークアメジストピアス。
とても紫色が綺麗で存在感があってデザインも素敵。
とても気に入るが$1400と聞き辞めておく。
それから可愛らしい珊瑚のK18イヤリングが$750。ううむ。。

昔のブログが消えるらしいので、移行~2007年05月22日 4/22 5thDAYinNY !!

思っていることを2,3。

まずテレビをつけるとMLB,NBA,NHL,NFLのニュースは必ず見る。
サッカーもやっているはずだけれども、皆無。
イチローは移籍した方のが必ず注目度が上がるはずだと思う。
松坂はNYにとっても注目の的であるようだった。

UFCではミルコがゴンザガと言うファイターの右ハイに綺麗に沈む。
側頭部直撃。K1でもPRIDEでも見たことない程綺麗にクニャリと。

アパートメントの隣の部屋の人がJAZZ好きらしく
毎日午前中からずっとJAZZが流れている。
おかげでシャワーを浴びる際のBGMは常にJAZZ。なんだか良い気分。

さて。今日のお話。

今日はまずメトロポリタンミュージアムを目指すも
ゆっくり見て回る時間の余裕がないのでは?と判断し、変更。
ダコタハウスを目指してみる。
途中ストロベリーフィールドがあったり、イマジンのレリーフがあったり。

そしてダコタハウス。
しかしジョン・レノンの死がなければここまで有名じゃなかっただろう。
ジョン・レノンの偉大さを感じる。

それからメトロでSpring stへ。
近くにあるチョコレート屋を覘き、Browdwayを上へ。
弟に頼まれていたLUSH発見。お土産を無事購入。
店員はNYにしては珍しく、めちゃくちゃフレンドリー。
それから露天で妹のお土産をGET。その後化粧品屋でマニキュア購入。
今度はびっくりするほど無愛想。教えてよぉ。。

そこからまた歩き、ミュージカルWICKEDを観る。
面白かった!前編英語だけれども、全くちんぷんかんぷんでもないし。
グリンダとエルファバの掛け合いは面白いし
グリンダは本当に可愛らしい。
かかしやブリキの木こりの出生も分ります。
確か劇団四季でもやるから、また見に行こうと思います。

昔のブログが消えるらしいので、移行~2008年04月20日 呼吸

先週の土曜日。彼女のお姉さんの赤ちゃんが生まれた
と言うことで、見てきた。
生まれて二日ばかりの赤ん坊(本当に赤い!)は小さいけれど
パーツ的にはすべて揃っていて不思議な存在だった…。
自分にもあぁ言う時期があった訳だ。

そうそう。お姉さんは予定日よりも一月早い出産だった。
で、破水があってから数日して産まれたのだそうな。

お腹の中の赤ん坊は羊水に浸っている。
僕は勝手にエラ呼吸をしていて産まれて肺呼吸になると勘違いしていたので
羊水がなくなると赤ん坊が窒息してしまうじゃないか!とビビッタが
考えてみればお腹の中の子供はへその緒を通してお母さんから
栄養やら酸素を得ている訳だから、食べないし呼吸をしないのだろう。
それがお腹から出て、外界に出たとたん呼吸を始める。
誰に教えられるでもないだろうに、凄いなぁと思う。

併記するのも何だと思うが、うちの祖父が亡くなって一年経つ。

祖父の亡くなる二日前くらいから意識はなかったのだが、
呼吸だけは規則正しく続けていた。いや。呼吸をするので精一杯だった。
その呼吸がだんだんと力を失い、呼吸と呼吸の間隔が広くなり
そして呼吸をしなくなった。それを思い出した。

何を差し置いても呼吸は全身の最後の力で行われる行為なのだなと。
普段何気なくしている呼吸だけれども
人の一生って呼吸に始まり、呼吸に終わるのかと。

今週はそんな呼吸について考えてみましたのでしたぁ。
ガンガン呼吸してガンガン大きくなれよぅ。赤ん坊くん☆

昔のブログが消えるらしいので、移行~2009年01月29日 一緒に生活問題。

男・女。と限らずとも。
人と人とが一緒に生活すること、
同居とは困難を伴うものだと思う。

この話をすると一笑に付す人もいるのだが
人と人とは根本的に異なった文化の中で
生きていると考えるのが妥当と思う。
つまり僕が日常生活、自分の属する家の中で
当たり前である習慣は、第三者にとって否である。

それは例えば洗濯物のたたみ方や
料理の味付けに始まり、洗面所の使い方や
食事の手順、歩き方や物の置き方など。
つまりは結構ありとあらゆるものが違うのだ。

同じ日本人であったとしても。

これは案外とやっかいな問題であったりする。

ソリューションと言うか。
個人的には実はあまり気にしないことじゃないかと思う。
100%自分、にできる訳もなく。
また、100%相手方、でも苦しいはずで。

こう言うことは細かいことを気にしだすとキリがなく
ただ、まったく気にしないのも無理なもので。
そして実は拘りがあったりなかったりなので
ぼちぼちすることなんかが重要じゃないかと。

最近そう思うのです。

昔のブログが消えるらしいので、移行~2009年02月19日 トト逝く。

2月18日午後11時25分。
我が家にいる年長の犬、トトが逝った。
12歳。そろそろ13歳?ってとこ。

年明けから咳がひどく。
診察の結果は「腎臓が悪いかも知れぬ」とのこと。
腎臓が悪くなると尿を製造できなくなり
結果むくんだりと、よくないことに。
それでも月曜までは元気だった。
日曜日、久し振りに一緒に散歩に行ったが
体調が悪いなんて嘘のようによく歩いた。

容態は昨日の午後からだんだん悪くなった。
今日は一日浅い呼吸を繰り返していたようで
たまに痛いのかあぉーぉんとないた。

夜、店を早めに閉めて駆けつけると
先に帰った父と一日付いていた母は暗い面持ち。
それでもまだ浅い呼吸で頑張っていた。
その後帰宅した弟と、あとから来た彼女と看ていた。

しばらく長い間浅く早い呼吸を繰り返し
たまに痛いのかあぉーぉんとなき。
そしてなんどがゴフっと水を吐いた。
二度、水を吐いた後しばらく。
痛そうに短くないていたが、胸の辺りがぐふぅとなるようになり
呼吸がだんだん弱く、少なくなっていった。
そして黄色い液を吐き出すと呼吸をやめ
くったりと口も開き、舌もだらんとした。

呼びかけるも応じず。心音は聞えるがだんだんと弱くなり。

そして逝った。

人にすればもう80歳くらい。
おかしなことじゃない。でも、なんだかなぁ。。

辛い。でもいつも一緒にいた両親が心配。
とくに、トトを抱いて少女のように泣きじゃくる
母が心配である。

とりあえずここに留める。

昔のブログが消えるらしいので、移行~2009年02月22日 トトがいなくなってから。

気づいたことふたつ。

まずトトが死んでしまった翌日。
店に出勤して思い出だらけだと言うことに気づく。
それは、もちろんトトが寝ていた段ボール箱から
始まって、好きで噛んでいたタオルやおもちゃ。
何気ないときに振り返ると寝転がっていたマット、
トイレに入ると外から扉をガシガシと引っかくことや
必ずご飯の17時には台所前にすくっと座る光景。

店どころか街中もそう。

トトと散歩した道。トトのおしっこした場所。
坂の下で呼ぶと上から全速力で駆けて来たり。
うんこさせようと努力してみたこと。
好きだった垣根。植え込み。最後に散歩した公園。

その一つ一つで涙腺が不意に緩む。
まさかこんなにトラップだらけとは思ってなかった。

そんで不意に、街ってのはこう言うふうに
色々な人やものの思い出を内包していることに気づく。
思い出でできてると言っても過言でない気すらした。

もうひとつ考えたことはいなくなると言うこと。

いなくなると心に穴が開く、なんて言う。
ポッカリ開いているのだが、それは他の犬が完全に
埋めることのできない穴だと気づく。
もう少し言えば、今回はトトがいなくなって開いた穴で
言わばトトの形の穴が開いたのだと思うのだけれども
その形をその大きさですっぽり埋めるのは本人しかなく
他の犬やら人では形が違うからすっぽりとは行かない。

穴が小さければ他の大きな形で埋まるけれども。
きっと存在とはそう言うことやも知れぬと気づく。

その人がいなくなるとその人の形の穴が開く。
それの大小の感じ方はもちろん人で違う。
だから埋められるものも、癒えるまでの時間も違う。


トト。命名者は自分。
最初はオズの魔法使いに出てくるドロシーの犬
「トト」から名前をもらった。
その後、エジプトの壁画にある犬の頭をした神様の名前が
トトと言うことに気づき、さらには店に良く来る
イタリア人にも馴染みのある名前だと言うことだった。

きっとここに書いていることはどうでも良いこと。
でもまさか。ペットを失うのがこんなに辛いとは。

2011年10月3日月曜日

秋になった

秋になった。
震災からは半年と少し過ぎた。

原発の問題はまだ片付かず、と言うか、
原発の問題はまだまだ解決しないということが
ジンワリとわかってきていて、そして。
原発の起こした問題は本当は、その事故が起きた
当初に思い込んでいたのより、よっぽど深刻だと
言うことがちょこちょこわかるけれども、驚けない。

いつの間にか街の音は元に戻ったように思う。
夏の節電で消灯していた自動販売機も明るくなった。

元に戻っている。
戻ることが一概にいいのかわからない。

もっとも、僕らはきっと元には戻らない。
震災の日からなんだかずっとサイレンが鳴っていて、
僕達の人生には思いも寄らない何かが起きるさと思わせる。
でもそれでも良いのかもしれないなと思う。

2011年9月9日金曜日

勝てば官軍

なでしこJAPANがロンドン五輪への出場権獲得!

タイ・韓国・オーストラリアを相手に3連勝し、
この試合に勝てば五輪出場決定!と言う北朝鮮戦。

日本は、ほぼ相手に試合をコントロールされるも
1チャンスをものにして先制。しかし あきらめない北朝鮮を前に
小さなミスを積み重ね、同点に追いつかれる。

試合の印象としては押されっぱなし。
1-1とは言え、引き分けたことがよかった。

その後、オーストラリアが中国を下し、日本の2位以上が確定!
五輪出場権をみごと得た。


今回の五輪予選で日本は本当に苦戦した。
しかしこれは予め予測できたことである。

アジア最終予選出場国とFIFAランクは以下の通り。
カッコ内は過去最高位。

日本 4位(4位) オーストラリア 9位(9位) 
北朝鮮 12位(5位) 中国 15位(4位)
韓国 16位(16位) タイ 28位(28位)


ロンドン五輪に出場できる国は12カ国。

地域別割り当ては、以下の通り。

出場国1、欧州2、アジア2、南米2、北中米2、アフリカ2、オセアニア1。


各地域のFIFAランク上位3カ国とその順位。

欧州―ドイツ2位、スウェーデン5位、イングランド6位
アジア―日本4位、オーストラリア9位、北朝鮮12位
南米―ブラジル3位、コロンビア29位、アルゼンチン34位
北中米―アメリカ1位、カナダ8位、メキシコ22位
アフリカ―ナイジェリア27位、ガーナ51位、ガイアナ55位
オセアニア―ニュージーランド24位、パプアニューギニア53位、トンガ67位

以上を見ると、欧州・アジア・南米・アフリカ・北中米の出場国枠が
同じ2であることがいかに不公平かがわかる。
女子サッカーにあってアジアは勝ち抜くのが難しい地域なのだ。

ちなみに綺麗に上から12カ国だとアフリカ、オセアニアからは
1カ国も選出されないし、南米もブラジルのみが出場権を得られる。


なでしこJAPANは現世界王者であるが、北朝鮮戦は決して
弱者との戦いなどではなく、非常に難しい予選だったと言える。

その予選をほぼストレートに戦い抜けたということは非常に評価できることだ。

勝てば官軍。横綱相撲。

なでしこの視聴率がよかったようだけど、これは世界王者になったことで
いままで興味のなかった人たちの興味を得たのだろう。
つくづく日本人は勝つってことが好きなんだなぁ~と思う。

そして勝者に厳しいなぁと思う。
小兵の関脇がたまたま調子がよくて場所優勝したようなもんですよ~!

2011年7月4日月曜日

BIRTHDAY

June 29th is my birthday. I became 32 years old last Wednesday.

On the morning of my birthday, I found a goldfish was jumped out from the bowl, and it's dead.
The day before my birthday, it was so fine and it came closer to me to get morning food as always it did.

Everyday I watch a short TV drama.
That drama is story about one old lady's history, and on this week that story is about the end of WWII.
One day, the WWII which was continuing till yesterday was finished.

I was 31 years old till June 28th.
A goldfish was alive yesterday, but it's gone now.
The end of WWII was historical moment, but it's part of daily life for the people who lived at that time.

Life is continuing.
This is what I thought on my birthday.

2011年6月11日土曜日

メモ

6月11日。今日で震災より3ヶ月が経ちました。
この未曾有の天災と、それに引き続く人災とも言える
福島第一原発の事故の後処理は、未だ終息していません。

なにができるのか?
なにをするべきなのか?と言うことを、よく考えます。
特にできることはないのかもしれない、などと考えつき、呆然とします。

ただ、少なくともしっかりと前をみて歩みを止めず、
なにかをすることを諦めないようにしよう思います。
せっかくその機会があるのですから。

2011年5月16日月曜日

電気について考えたの心だ!

結局、メルトダウンしてる!などの問題もあって
IAEAが入ることを拒否していたとも考えられる。

そう言う不透明さはどーにかならないものか。

IAEAなどの外部の目に入ってもらいたい。

それと東電は解体するので良いと思う。

消費者として、ここまで信用ならないなと思う企業は
通常なら利用しない、などのことができる。
そう言う状況なら、確実に、東電は利用していないと思う。

でも関東に住んでいる以上、基本、選択肢がない。
東電を利用したくないからと言って中部地方に越すわけにもいかない。

思うのだけど。

例えば東急電鉄とか東京ドームとかが自らが使う電力を確保するため
近隣の建物、住宅やビルなどが太陽光発電などを導入することに
ちょっとした手助けをするとともに、その電力の供給を受ける。

見返りとして、例えば、電車の運賃が割引されるとか
巨人戦のチケットがもらえるとか。そう言う風にする。

これを繰り返すうちに、安定した電力を確保することに成功する。
余剰電力を、今度は地域に供給することができる。
みたいにして新たな電力供給企業は生まれないものかしら…。

人は、例えば巨人を応援したいから東京ドームに電気を供給したり
するわけ。エコでもあるし。法律の改定とかが必要になるのかな…?

2011年4月21日木曜日

兼好法師に怒られたなぅ。

なにかを成すべきなんじゃないだろうか?
と、考えた。自分はなにもしてないんじゃないか?
なにか成すべきだろう、と。

そして自分に過去や自分自身のことや
そう言ったことを諸々考えては、思い悩んだり、
どうしたらいいんだ?と考えたりしていた。

そんなとき、徒然草に怒られた。

曰く、人生でなにか成そうという野望なんて
もってたってキリがないものだ。
どの時分に死んだって後悔が残るものだ。
だったら、そんなもの初めから持たずに、
ぼーっとして死になされ。っちゅうような。

わかりました!兼好法師!

2011年3月31日木曜日

ホームタウン。

僕は湯島の生まれ育ちで、上野も地元になります。

むかし、このような喧騒の街に帰ってきたところで
あぁ、生まれ故郷に帰ってきた!と思うのか?と
尋ねられたことがある。

もちろん!と答えた。だって思うんだもん。

その生まれ故郷が、震災から後、何か足りない。
人が少ないってのはあるんだけれども、音が足りない。
上野の街の 音 の中で、ど真ん中を占めていた音がない。

それがなんなのかわからないけれど、
喧騒って音だったんだと思う。それがなんだか寂しい。

2011年2月6日日曜日

もう1人の「ゆうと」

僕の下の名前はゆうとである。字は勇人。

昔はそーでもなかったが、今は同じ名前の
子供なんかが本当にたくさんいる。

そのゆうとのうちの1人、長友佑都がえらいことを成した!
あの、イタリアの超強豪で名門。インテルミラノに移籍!

これでミラノへ行って
「俺の名前はゆうとだぜ!」と言えば、ウケルに違いない。

凄いぜゆうと!!

しかしまぁ。
インテルと言えば、クリンスマンやマテウスとかザマーはじめ、
ベルカンプ、ヴィンター、ベルゴミもいたしシメオネもいたし
レコバもいたし、ロベカル、ロナウドもいたか。
あとはサモラーノやヴィエリやアドリアーノやらやら。

キラ星の如く選手達ばっかりいて、
まさか日本人がプレーする日が来るとは…。
凄いなぁ。。。。

2011年1月6日木曜日

全日を観に行った。

正月2日。
妻のたっての願いで全日本プロレスの試合に行く。

日本でプロレスを観るのは2回目。
あとアメリカでWWEを1回観たことがある。

前回観た日本のプロレスは、スコット・ノートンがでかく、
あんだけ強力なでかい奴が負けるのだろうか?と思っていたら
スタミナが切れて動きが悪くなって、なるほどと思ったのを
よく覚えている。

今回観に行ってなによりも大好きになったレスラー、
それはTARUと言うヒールのレスラー。

TARUは悪の軍団、VOODOO-MURDERSのボス。
ベビーフェイス(良い物)レスラーに対して
時には非常な手段をも使う悪の親玉。

TARUが大好きになったのは稔と言うレスラーの試合。
稔は、妻曰く、新日でバリバリのベビーフェイスでやっていた
好青年のレスラーなのだが、全日移籍にあたり悪役に
転向したようであった。

その稔がタイトルを17度も防衛しているカズ・ハヤシと
世界ジュニアヘビー級王者と言うタイトルをかけた試合。

この試合は本当に面白い試合だった!
空中戦あり、フォールの応酬ありの実力伯仲の好試合だと思う。

もう二人ともふらっふらなんである。
死んじゃうんじゃないか?立って平気なのか?
なぜあそこであんなことがまだできるんだぁ!と言う試合。

会場はまさに白熱。
プロレスには昭和が残っているんだなぁと思ったんだが
歓声が「うわぁっ!」と言う音の面になって耳にバンっと当たる。
会場の一体感たるや凄い。
そこにいる子供もおじさんもお姉ちゃんもみんな
中央のリングで行われているその試合に釘付け。
そしてみんな我を忘れて精一杯の声援を送る。

やっている本人達ももちろん消耗戦。
もうどっちが敗れても、勝ってもおかしくない。
そんな展開の中、何度もフォールし、フォールを返して、
そして試合は稔の新王者戴冠と言う結末で終わる。

TARUはこの試合に稔のセコンドとして付いていた。

こまめにアドバイスを送り、決して試合に乱入したりしない。
なんとなくテレビでもアメプロを見ていたことが多かったので、
あそこまでヒールの仲間の分が悪くなると、てっきり乱入して
没収試合にしちゃったり、相手をボコボコにしちゃったり
するんだと思ってたんだが、TARUはセコンドとしての役割を
ちゃんと正しくこなし続ける。

そして、試合が終わってすぐにTARUがしたこと。
それは試合が終わった稔にコールドスプレーをかけることだった。
肩を重点的にかけているところから、稔の肩が痛んでのことと思う。

真っ先にそれをするTARUを見て、
なんて優しいんだ!と本当に感動した。
もうVOODOO-MURDERSに入信しても良い!と思ってしまう。

そんな感動を忘れられない、正月2日。
今年はもちょっとプロレスみに行こう!